はじめに:なぜ、世界的なEVシフトの中で日本は「水素」に巨額を投じるのか
2025年度(令和7年度)の税制改正大綱において、自動車ユーザーが最も注目していた「環境性能割の廃止」は見送られ、「2年間の停止」という決着に至りました。このニュースの裏で、自動車業界関係者の間で静かに、しかし熱く議論されているもう一つの事実があります。それは、政府による補助金政策の「明らかな偏り」です。
世界市場を見渡せば、テスラやBYDを筆頭にEV(電気自動車)が席巻しているように見えます。しかし、日本の経済産業省の予算配分を見ると、普及が進むEVへの補助金は条件が厳格化・減額傾向にある一方で、FCV(燃料電池車)に対しては車両価格の差額を埋めるために200万円を超えるような手厚い補助金が維持されています。
2025年度のCEV補助金
EVやPHEVの上限が85万円
FCVは255万円と3倍近い支援額
が設定されているのです。さらに驚くべきことに、2026年1月以降はEVの補助金が130万円に増額される一方、FCVは150万円へ減額される計画も発表されました。それでも依然としてFCVへの手厚い支援は継続されています。
なぜ日本は、世界的なEVトレンドに逆行するかのように水素へ巨額の投資を続けるのでしょうか?単なる「トヨタへの忖度」と片付けるのは簡単ですが、実態はもっと深刻で、日本のエネルギー安全保障の根幹に関わる問題です。本記事では、自動車業界の末席に身を置く筆者が、日産サクラの中古車市場の混乱などの最新事象を交えつつ、この国の国家戦略を読み解きます
- 先ずはEVとFCVの違いから
- 税制と補助金から読み解く「政府のメッセージ」
- EVの限界と「日産サクラ」が露呈させた日本の住宅事情
- 「蓄電池」vs「発電所」:国家エネルギー安全保障の視点
- 物流の2024年問題とFCVの不可欠性
- 2030年の景色:日本独自の「適材適所」戦略
先ずはEVとFCVの違いから

モーター駆動車の二大巨頭「EV」と「FCV」
世界の自動車市場は今、かつてない大変革の渦中にあります。2024年の世界EV販売台数は1,750万台に達し、新車販売の22%を占めるまでに成長しました。その一方で、トヨタのFCV「MIRAI」の2024年販売台数はわずか1,702台と、同じゼロエミッション車でありながら明暗が分かれる結果となっています。
昨今、自動車業界の話題は「脱炭素化」一色であり、エンジンを持たないモーター駆動の車、すなわちゼロエミッション車(ZEV)へのシフトが急務となっています。このZEVの主役には、EV(電気自動車)とFCV(燃料電池車)という二つの異なる技術が存在します。
一見すると、どちらも「排気ガスを出さず、静かにモーターで走る車」ですが、そのエネルギー源と供給システムには根本的な違いがあります。本記事では、このEVとFCVを、基本定義から、環境性能、そして今後の日本の国家戦略に至るまで、最新データを交えながら詳細に比較・解説していきます。
🚗 EVとFCVの基本定義と代表例:エネルギー源が全て
EVとFCVは、駆動方式は同じ「モーター」ですが、エネルギーをどこから、どのように得るかという点が全く異なります。この違いこそが、両者の性質と将来性を決定づける最も重要な要素なのです。
■ EV(Electric Vehicle:電気自動車)
EVは、文字通り電気を動力源とする自動車です。車体下部に搭載された巨大なバッテリーパックに外部から電力を貯蔵し、その電力を使ってモーターを回して走行します。
エネルギー源とシステム: 電力をバッテリーに蓄え、モーターで走行。外部のコンセントや充電スタンドから充電を行います(外部給電)。
代表例:
- 日産 リーフ
- テスラ Model 3/Model Y(2024年世界販売1位)
- トヨタ bZ4X
- BYD各車種(2024年EV販売台数406万台で世界トップ)
現在、EVは最も普及が進んでいる方式であり、2024年の日本国内販売台数は約10万台、世界全体では**中国が1,130万台と圧倒的なシェア(64%)**を占めています。
■ FCV(Fuel Cell Vehicle:燃料電池車)
FCVは、「燃料電池」という化学装置を使って、車内で自ら電気を作り出す自動車です。水素を「燃料」としてタンクに貯蔵し、空気中の酸素と化学反応させることで発電し、その電気でモーターを駆動します。
エネルギー源とシステム: 水素を使って車内で発電し、その電気でモーターを駆動します。外部充電は基本的に不要です(システム安定化のための小型補助バッテリーは搭載)。
代表例:
- トヨタ MIRAI(2024年11月までに世界で1,702台)
- トヨタ クラウンセダンFCEV
- ホンダ CR-V e:FCEV(2024-2025日本カー・オブ・ザ・イヤーのテクノロジー部門受賞)
FCVは技術的な先進性が非常に高い方式ですが、2024年現在、日本国内の水素ステーションは約149箇所と、インフラ整備が大きな課題となっています。
⚡️ エネルギー供給の違い:最大のポイントは「発電場所」
EVとFCVの根本的な違いを理解する上で、最も重要なのがエネルギー供給のプロセスです。この違いが、両者の利便性、環境性能、そして将来の役割分担を決定づけています。
| 項目 | EV(電気自動車) | FCV(燃料電池車) |
|---|---|---|
| エネルギー源 | 電気(電力) | 水素 |
| 供給方法 | 充電(外部から入力) | 水素充填(数分で完了) |
| 発電場所 | 発電所(火力、再エネ、原子力など) | 車内(燃料電池スタック) |
| 充填・充電時間 | 急速でも20〜40分 | 約3分(ガソリン車並み) |
| 航続距離 | 300〜600km(車種による) | 600〜850km(長距離が得意) |
▶ EVは「発電所由来」のエネルギーを利用
EVの場合、充電される電気は、地域の電力会社が運営する発電所で作られたものです。車両構造はシンプルですが、電力系統に大きく依存します。充電時に必要なインフラは、既存の電力網にコンセントを増設する形で対応できます。
日本の充電インフラの現状:
- 2024年時点で全国約85,000台の充電器が設置(前年比58%増)
- 急速充電器:12,313台
- 普通充電器:73,089台
- 政府目標:2030年までに30万口
この急速な整備により、EVの日常利用における利便性は着実に向上しています。
▶ FCVは「化学反応」で自ら発電
FCVは、車載タンクに貯蔵された**高圧水素(70MPa=約700気圧)**を燃料電池スタックに送り込みます。そこで水素(H₂)と空気中の酸素(O₂)が反応し、水(H₂O)と電気を発生させます。この電気を直接モーターに供給します。
走行時の副産物は「水」のみであり、真の意味で**「走る発電所」**なのです。燃料電池のエネルギー効率は30%以上と、ガソリンエンジンの15〜20%と比較して約2倍の高効率を実現しています。
🌎 環境性能の違い:「Well to Wheel」の視点
走行中に排気ガスを出さないゼロエミッション車である点は共通ですが、燃料や電力の製造・供給段階まで含めた環境負荷(Well to Wheel:燃料採掘から走行まで)を考慮すると、議論は複雑になります。
■ 走行時の排出ガス
- EV: 走行時の排出ガスはゼロ
- FCV: 走行時の排出ガスはゼロ(副産物は水のみ)
■ 製造・供給段階を含めた環境負荷
ここで重要なのが、それぞれのエネルギー源がどう作られているかです。
EVの課題:
日本の電力は、依然として火力発電への依存度が高いため、EVの電気は間接的にCO₂を排出しています。EVを真にクリーンにするためには、充電する電力が再生可能エネルギー由来(グリーン電力)であることが不可欠です。
FCVの課題:
FCVの燃料である水素は、製造方法によって環境負荷が大きく異なります。
| 種類 | 製造方法 | CO₂排出量 | 製造コスト(2024年) |
|---|---|---|---|
| グレー水素 | 天然ガスなど化石燃料を改質 | 約12kg-CO₂/kg-H₂ | 1kgあたり0.5〜1.7ドル |
| ブルー水素 | 化石燃料+CCS(CO₂回収) | 1kg-CO₂/kg-H₂以下 | 1kgあたり1〜2ドル |
| グリーン水素 | 再エネ電力で水を電気分解 | ほぼゼロ | 1kgあたり3〜8ドル |
現状の日本:
- 水素販売価格:1Nm³あたり約100円(1kgあたり約1,650〜2,200円)
- 政府目標:2030年までに30円/Nm³(約334円/kg)、2050年に20円/Nm³以下
現時点では「完全にクリーン」と言い切れるのはどちらも限定的であり、EVもFCVも、再エネ電力やグリーン水素の普及が鍵となります。しかし、2015年から2020年の5年間でグリーン水素の製造コストは約40%低減しており、技術革新による更なるコスト削減が期待されています。
🛣️ 利便性・インフラ比較:実用化の大きな壁
一般ユーザーにとって最も体感しやすい違いは、エネルギーの補給にかかる時間とインフラの状況です。この点が、現在の市場普及状況に直結しています。
| 観点 | EV(電気自動車) | FCV(燃料電池車) |
|---|---|---|
| 補給時間 | 急速でも20〜40分 | 約3分(ガソリン車並み) |
| インフラ | 急速に拡大中(約85,000箇所) | 非常に限定的(約149箇所) |
| 自宅補給 | 可能(200V工事必須) | 不可 |
| 航続距離 | 300〜600km(車種による) | 600〜850km(長距離が得意) |
| 補給場所の営業 | 24時間利用可能な箇所多数 | 週1回営業の箇所も存在 |
▶ 日本市場の現実
EVのインフラ整備状況:
- 全国に約85,000台の充電器(2024年、前年比58%増)
- 自宅充電が可能で、近隣の商業施設や公共施設にも充電器が急増
- 東京都では2025年4月から新築建物にEV充電設備の設置を義務化
- 日常利用においてはすでに実用レベル
FCVのインフラ制約:
- 全国の水素ステーション数:約149箇所(2025年現在)
- 政府目標:2025年までに320箇所、2030年までに1,000箇所
- 首都圏47箇所、中京圏45箇所と都市部に集中
- 長崎県、宮崎県、沖縄県での設置数はゼロ
- 週1回のみ営業や、移動式ステーションが巡回する箇所も多い
FCVの強みは「補給時間の短さ」ですが、水素ステーションの建設コストが約4億円(ガソリンスタンドは7,000〜8,000万円)と高額なため、インフラ制約がFCVの一般普及を限定的にしている最大の要因です。
💰 車両コストと技術成熟度:国家戦略技術としてのFCV
車両本体のコストと技術の成熟度にも大きな差があります。この経済性の違いが、両者の市場戦略を大きく分けています。
■ EVのコストダウン
EVは構造がシンプルであることに加え、バッテリーの大量生産技術が確立されつつあり、車両価格は年々低下しています。
日本市場の価格帯:
- 軽EV(日産サクラ、三菱ekクロスEV):約200万円台
- 普通車EV:300万円台〜
特に中国メーカーBYDは2024年に406万台を販売し、中国市場では販売されたEVの3分の2が同等クラスの内燃機関車より低価格となっています。この熾烈な価格競争が、グローバルなEVシフトを加速させています。
■ FCVの高コスト体質
FCVの価格が高額な理由は明確です:
| 高コスト要因 | 詳細 |
|---|---|
| 燃料電池スタック | 白金(プラチナ)を約40g使用(非常に高価) |
| 高圧水素タンク | 70MPaの超高圧に耐える特殊材料が必要 |
| 量産効果 | 生産台数が少ないため量産効果が出にくい |
日本市場の価格帯(補助金適用前):
- トヨタ MIRAI:726〜861万円
- トヨタ クラウンセダンFCEV:1,073万円
- ホンダ CR-V e:FCEV:約800万円台
これらの部品は量産効果が出にくく、技術的な難易度も高いため、FCVは事実上、国や巨大企業が主導する国家戦略技術としての性格が強いのが現状です。このコスト差を埋めるために、政府はEVを上回る手厚い補助金を投じています。
2025年度の補助金予算:
- EV購入補助金:1,100億円
- 充電インフラ整備:460億円
- FCV購入補助金:EVを上回る手厚い支援
🛡️ 安全性の考え方:未だに残る潜在的な懸念
どちらの車両も、国が定める厳格な安全基準をクリアしているため、実際の事故率は極めて低いですが、潜在的なリスクについての懸念は異なります。
■ EVの懸念
バッテリーの損傷による「熱暴走(サーマルランアウェイ)」からの発火です。
- リチウムイオンバッテリーは、物理的損傷や過充電により発火のリスクがある
- 一度発火すると消火が非常に困難(大量の水が必要)
- ただし、最新のバッテリー管理システム(BMS)により安全性は大幅に向上
- 船舶による輸送時の保険料上昇など、業界全体での安全対策が進行中
■ FCVの懸念
高圧水素(70MPa=約700気圧)を扱うため、衝突時の水素漏れ・爆発リスクが懸念されます。
しかし:
- タンクは厳重に保護され、極めて高い安全基準で設計
- 設計上、漏れた水素が滞留しないよう上方に拡散する構造
- 水素は空気より軽いため、漏れても迅速に大気中に拡散
- トヨタMIRAIは衝突安全性試験で最高評価を獲得
両者とも、実際の使用において重大な安全問題は報告されておらず、技術の進歩により安全性は年々向上しています。
🚀 用途別・将来展望:日本が目指す「適材適所」戦略
日本の自動車メーカーや政府は、EVとFCVのどちらか一つを選ぶのではなく、それぞれの特性を活かした**「適材適所」**での普及を目指しています。この戦略こそが、日本が両技術に投資を続ける理由です。
■ 役割分担の明確化
| 分野 | EVが向いている分野 | FCVが向いている分野 |
|---|---|---|
| 利用形態 | 乗用車(特に都市部) 個人利用 近距離配送 カーシェア | 長距離輸送 大型商用車(バス・トラック) 発電用途(定置式) 物流拠点での運用 |
| 充填時間 | 夜間充電で対応可能な用途 | 稼働率重視(待機時間最小化) |
| 航続距離 | 日常的な短〜中距離移動 | 長距離・大量輸送 |
| 車両重量 | 軽量〜中型車両 | 大型・重量級車両 |
■ 商用車分野でのFCVの本命化
特に注目すべきは、商用車分野でのFCV活用です:
- 8トン超の大型トラック:2020年代に5,000台の先行導入目標
- 2040年までに電動車と合成燃料等で100%を目指す
- 水素利用量は、乗用車と比較して小型トラックで十数倍、大型トラックで数十倍
世界の動向:
- 現代自動車:2025年までに1,600台のFCトラックを欧州に出荷予定
- ダイムラートラック:2025年以降に大型FCトラックを量産予定
- 中国:北京五輪で水素バス515台を運用し、商用車中心に展開
トヨタがFCVを継続する真の理由
トヨタがFCVを継続する真の理由は、乗用車市場でのシェア争いではなく、「水素をインフラとして使う社会」の構築にあります。
将来的に電力系統が逼迫した場合でも、水素エネルギーが国の物流や産業を支える「本命」となることを見据えた、極めて戦略的な判断なのです。実際、FCVは大規模な非常用電源としても機能し、災害時にも活躍できる可能性を秘めています。
まとめ:EVとFCVの役割分担と未来への展望
両技術の特性を総合的に評価すると、以下のようにまとめられます。
| 観点 | EV(電気自動車) | FCV(燃料電池車) |
|---|---|---|
| 普及スピード | ◎ (市場主導で加速中) 2024年世界1,750万台 | △ (インフラがボトルネック) 2024年世界数千台レベル |
| 日常の利便性 | ◎ (自宅充電可・インフラ拡充) | △ (水素ステーションが課題) |
| 技術の将来性 | ◯ (バッテリー技術の進化に依存) | ◎ (高エネルギー密度で長距離・大型に向く) |
| インフラ整備 | ◎ (既存の電力網を活用) | △ (ゼロから構築が必要) |
| 国家戦略性 | △ (輸入電力への依存は続く) | ◎ (エネルギーの備蓄・多様化に貢献) |
| 車両価格 | ◎ (200万円台から) | △ (700万円以上) |
| 補給時間 | △ (20〜40分) | ◎ (約3分) |
| 環境性能 | ◯ (電源構成に依存) | ◎ (グリーン水素なら完全クリーン) |
■ 2025年以降の展望
EV市場:
- 世界販売台数は2025年に2,000万台超と予測(IEA)
- 日本では2025年以降、トヨタ、日産、ホンダ、スズキなど多数の新型EV投入予定
- 中国が引き続き市場を牽引(64%シェア)
- 新車販売の4台に1台以上がEVになる見込み
FCV市場:
- 乗用車市場では苦戦継続(インフラ制約)
- 商用車・大型車両での本格展開に注力
- 水素ステーション:2030年までに1,000箇所整備目標
- グリーン水素コスト:2030年までに現在の3分の1を目標
■ 最終結論
EVは「今すぐ普及できる現実解」として乗用車市場を牽引し、FCVは「将来のエネルギー社会と大型モビリティを支える本命」として、国のインフラ戦略の中で育成されていく。
これが、現在の日本が目指す、EVとFCVの明確な役割分担なのです。
税制と補助金から読み解く「政府のメッセージ」

まず、今回の税制改正と補助金の現状を冷静に分析してみましょう。
政府が決定した「環境性能割の2年間停止」は、表向きには物価高騰にあえぐ国民への配慮ですが、裏を返せば「ガソリン車を含む自動車市場全体の買い控えを防ぐための延命措置」に過ぎません。これ自体は、特定のパワートレイン(動力源)を優遇するものではありません。
しかし、CEV補助金(クリーンエネルギー自動車導入促進補助金)の設計思想は明らかに異なります。
EVの扱い:自立促進フェーズへの移行
普及期に入ったと判断され、補助金は「自立」を促すフェーズへ移行。原資に限りがあるため、今後は徐々に条件付き化が進む流れです。実際、2023年度まではV2H機器価格の2/3が補助対象だったものが、2025年度には1/2に縮小されるなど、段階的な支援縮小が見られます。
FCVの扱い:未成熟市場として全面バックアップ
「未成熟な市場」として、国が全面的にバックアップ。車両購入補助に加え、水素ステーション建設・運営費への巨額補助が継続されています。2025年11月現在、全国148箇所で水素ステーションが運用されており、国は2030年までに1,000か所の設置を目標としています。
水素ステーション1基の整備には約4億円、運営費は年間4,300万円という巨額のコストがかかります。2020年度の運営費補助だけで約20億円が投じられ、仮に2025年度に320基が稼働すれば年間61億円の運営費支援が必要と試算されています。これは、単なる交通手段の支援ではありません。
ここから読み取れる政府のメッセージは明確です。**「乗用車としてのEVは、もう民間主導で戦える(あるいは戦うべき)段階にある。しかし、FCVは国策としてインフラごと支えなければ、日本の将来が危うい」**という危機感です。これは単なる移動手段の話ではなく、エネルギー政策そのものなのです。

EVの限界と「日産サクラ」が露呈させた日本の住宅事情

ここで、足元のEV市場で起きている興味深い現象について触れなければなりません。軽EV「日産サクラ」の中古車市場における在庫急増現象です。
サクラは素晴らしい車です。日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、走行性能も評価されています。しかし、補助金という「餌」に飛びつき、自宅に200Vの充電設備を持たないまま購入したユーザーが、納車後に現実に直面しています。
「100V充電では一晩かかっても満タンにならない」 「冬場、暖房をつけると航続距離が極端に落ちる」 「電気代高騰で、期待したほどランニングコストが下がらない」
その結果、5年間の保有義務(補助金返納免除期間)を無視してでも手放すケースが散見されます。中古車サイトを見れば、走行距離数百kmという「ほぼ新車」のサクラが大量に並んでいるのが現実です。
この現象は、**「日本の住宅環境(特に集合住宅)において、全車両をEV化することの物理的限界」**を示唆しています。国土交通省のデータによれば、日本の持ち家率は約6割。残り4割は賃貸住宅で、その多くが集合住宅です。全世帯に200V充電器を設置し、全員が帰宅後に一斉充電を行えば、電力系統(グリッド)はパンクします。
つまり、EVは「自宅充電が可能な戸建て層」には最適解ですが、それ以外の層、そして充電時間を惜しむビジネスユースにおいては、内燃機関車と同様に「数分で燃料補給が完了する」システムの維持が必要不可欠なのです。それができるゼロエミッション車は、現状FCVしかありません。
水素充填は約3分で完了し、トヨタMiraiでは5.6kgの水素充填で750km〜850kmの走行が可能です。これはガソリン車と変わらぬ利便性を提供します。
「蓄電池」vs「発電所」:国家エネルギー安全保障の視点


EVとFCVを比較する際、多くのメディアは「航続距離」や「燃料代」だけで比較しますが、本質的な違いはそこではありません。
EV = 巨大な乾電池(エネルギーを貯める) FCV = 小さな発電所(エネルギーを作る)
日本は資源のない島国です。エネルギー自給率はわずか11.8%(2022年度)と極めて低く、有事の際にシーレーンが封鎖されれば干上がります。電気(電力)は「生もの」であり、大量に長期間保存することが極めて困難です。巨大なバッテリーを作っても、自己放電による損失があり、数ヶ月単位の備蓄はできません。
一方、**水素は「エネルギーを缶詰にする技術」**と言い換えられます。再生可能エネルギーで作った電気を水素に変換、あるいは海外の安価な資源から水素を製造し、タンクに詰めておけば、減ることなく何年でも保存・備蓄が可能です。
政府は2030年に最大300万トン/年、2050年には2,000万トン/年まで水素供給量を拡大する目標を掲げています。これは単に自動車用ではありません。産業用途、発電用途を含めた、国家エネルギー戦略の根幹です。
政府がFCV、ひいては水素社会を推進するのは、車を走らせるためだけではありません。「車という動くインフラ」を通じて、国内に水素サプライチェーンを構築し、エネルギーを「輸入・備蓄・利用」できる体制を整えることが真の目的なのです。これは、EV単独では絶対に達成できない国家安全保障上の要請です。
実際、2024年に水素社会推進法が施行され、低炭素水素の製造事業支援が2025年9月から開始されました。国は本気で水素経済圏の構築を目指しているのです。
物流の2024年問題とFCVの不可欠性


もう一つ、業界関係者がFCV推進を「是」とする決定的な理由があります。それは**「大型商用車(トラック・バス)の脱炭素化」**です。
物流は国の血液です。しかし、大型トラックをEV化しようとすると、物理学の壁にぶつかります。長距離を走るために巨大なバッテリーを積めば、その重量で積載量(荷物の量)が減り、商売になりません。さらに、急速充電で30分も40分も止まっていたら、配送スケジュールが崩壊します。
中国BYD社の大型EVバス「K9」の例を見れば明らかです。324kWhものバッテリーを搭載し、車体重量が14.4tに達し、同クラスのディーゼルバスよりも4.4t重くなり、航続距離は250kmに留まります。これでは長距離物流には使えません。
ここでFCVの出番です。水素タンクはバッテリーに比べて圧倒的に軽量で、エネルギー密度が高い。そして充填時間は軽油と変わらず数分〜十数分。


トヨタと日野が共同開発するFC大型トラックは、航続距離約600kmを目標とし、車両総重量は25トンを実現しています。FC化による重量増は1〜1.5tと推定され、積載量減少は約10%に抑えられる見込みです。これに対し、同等の性能をEVで実現しようとすれば、バッテリー重量だけで数トンに達し、商用利用は不可能です。
日本の物流網を支える長距離トラックをゼロエミッション化するには、現時点の技術ではFCV一択なのです。
愛知県では「あいち物流脱炭素化推進会議」を2024年10月に立ち上げ、FCトラックの導入事例を構築中です。2023年5月にはCJPTが東京都で小型FCトラック約190台、2025年中に大型FCトラック約50台を幹線物流向けに導入する計画を発表しました。トヨタがいすゞや日野と組んでFCVトラックを開発し、国がそこに補助金を出すのは、日本の物流を止めないための必然の選択と言えます。
国土交通省のデータによれば、国内商用車全体のCO2排出量の約7割を大型トラックが占めています。ここを電動化できなければ、カーボンニュートラルは絵に描いた餅に終わります。
2030年の景色:日本独自の「適材適所」戦略


では、日本はEVを捨てるのか?答えはNOです。将来、2030年頃の日本の道路には、以下のような棲み分け(ベストミックス)が成立していると考えられます。
軽自動車・コンパクトカー・近距離配送車 ➡ 「EV」
自宅や配送センターで充電可能。航続距離も日常使いなら十分。サクラの教訓を活かし、充電インフラのある場所で普及が進む。実際、都市部の短距離配送には最適解です。
長距離トラック・高速バス・社用車 ➡ 「FCV」
稼働率重視。特定のルートや水素ステーション網を活用し、止めずに走り続けるプロの道具。愛知県内の水素ステーション数は全国1位の35カ所で、FCバスなどに対応できる大型ステーションも20カ所あり、商用FCV展開の基盤が整いつつあります。
ミドルレンジ乗用車 ➡ 「ハイブリッド(HEV/PHEV)」の残存
現実的な解として、合成燃料(e-fuel)等の活用も含め、内燃機関も長く使われ続ける。技術の成熟度と実用性のバランスが優れています。
日本政府やトヨタが描いているのは、「EV一本足打法」のリスク回避です。欧州や中国がEVへ急激に舵を切る中、日本があえてFCVという「険しい道」にリソースを割くのは、梯子を外された時の保険であり、全方位で技術を確保しておくための高度な経営戦略・国家戦略でもあります。
実際、2025年4月には日野自動車と三菱ふそうトラック・バスが経営統合の最終調整に入り、トヨタとダイムラートラックの協業による水素関連事業の加速が報じられました。世界的な自動車メーカーが、今でもFCVに本気で取り組んでいるのです。
おわりに:国家戦略としての水素社会


ニュースの見出しだけを追うと、「日本はEVで遅れている」「水素にしがみついている」と映るかもしれません。しかし、エネルギー事情、住宅事情、そして物流の現場を知れば知るほど、**「日本にとってFCVは選択肢ではなく、必須科目である」**という事実が見えてきます。
日産サクラの中古車市場の混乱は、インフラなきEV推進の歪みでもあります。EVかFCVかという二項対立ではなく、**「適材適所で使い分けるためのインフラ作り」**こそが、今の日本に求められているのです。
全国148箇所の水素ステーションは、まだ2030年の目標1,000か所には遠く及びません。しかし、この数字の裏には、エネルギー安全保障を死守しようとする国家の強い意志があります。
政府の税制優遇と補助金のアンバランスさは、その将来像へ向けた、国からの強烈なメッセージなのかもしれません。世界がEV一色に染まる中、日本だけが水素という「もう一つの未来」に賭け続ける理由。それは、島国としての宿命と、技術立国としてのプライドが交差する地点に存在します。
100年に一度の自動車革命の中で、日本は「全方位外交」ならぬ「全方位技術開発」という、極めて日本的な戦略を選択しました。その成否が明らかになるのは、おそらく2030年代。私たち自動車業界の末端にいる者も、この歴史的転換点を見守り続けることになるでしょう。
2026年も日本各所で自動車関連イベントが開催予定です。最新技術の紹介や業界トレンドをいち早くお届けしていきたいと考えております。
執筆者注記:
本記事は自動車業界に携わる一個人の視点から執筆したものです。
CEV補助金の詳細や最新情報については、
一般社団法人次世代自動車振興センター(NeV)の公式サイトをご確認ください。
水素ステーションの設置状況については
燃料電池実用化推進協議会(FCCJ)で最新情報が公開されています。



