カーボンニュートラル(CN)という巨大な変革期において、自動車・モビリティ業界は「動力源の転換」という歴史的課題に直面しています。その中で、ヤマハ発動機が「内燃機関の可能性」を信じ、着々と進めているのが「水素エンジン」の開発です。本記事では、創業から続く同社のこだわりと、業界をリードする最新技術の現状、そしてデジタル変革がもたらす次世代モビリティの将来像について、最新動向を交えながら徹底解説します。

ヤマハ発動機の企業哲学と水素エンジンへの挑戦
ヤマハ発動機は、2025年に創立70周年という大きな節目を迎えます。1955年の創業以来、同社は製品やサービスを通じて「感動」を届けることを企業目的として掲げ、世界中にファンを持つブランドを確立してきました。
同社のモノづくりを支える指針は、**「発・悦・信・魅・結」**という5つの漢字で定義されており、独創的なコンセプトで革新に挑む「発(イノベーション)」の精神が、水素エンジン開発の原動力となっています。
同社は「環境計画2050」を掲げ、2050年までの全事業活動におけるカーボンニュートラルを目指しています。さらに、スコープ1・2におけるカーボンニュートラルの目標を2035年に前倒しし、各種取り組みを加速させています。その一方で、日髙祥博社長(当時)が「社名に”発動機”とあるように、内燃機関への強い思いとこだわりを持った会社である」と述べている通り、エンジンが持つ官能性や操る楽しさを次世代に継承することを重視しています。
トヨタと共同開発したV8水素エンジンの衝撃

その象徴的な取り組みが、トヨタ自動車からの委託を受けて開発された**「V型8気筒5.0リッター水素エンジン」**です。レクサス「RC F」に搭載される高性能エンジンをベースに、インジェクターやシリンダーヘッド、サージタンクなどを水素専用に改良し、最高出力335kW(約455馬力)/6,800rpm、最大トルク540Nm/3,600rpmを発揮します。
開発を担当したヤマハのエンジニアによると、「100%水素を燃料とするエンジンが、じつは非常に楽しく扱いやすい動力特性を持っていた」といいます。電子制御のデバイスに頼らなくても、元来水素エンジンは操作しやすいフレンドリーな特性を持っており、試走した人々が皆、笑顔でクルマを降りてくる姿を見て、ガソリンの代用という消極的な動機ではなく、水素エンジンならではの特性に大きな可能性を感じるようになったといいます。
さらに、8in1集合排気管が奏でる「ハーモニックな高周波サウンド」など、五感に訴える魅力も追求されています。動力性能だけでなく、まだ見ぬ内燃機関の魅力を追求する――これこそがヤマハの水素エンジン開発の本質なのです。
業界の垣根を超えた協調領域「HySE」の挑戦

2023年5月、ヤマハ発動機は国内メーカー4社(カワサキモータース、スズキ、ホンダ、ヤマハ)と共に**「技術研究組合水素小型モビリティ・エンジン研究組合(HySE:Hydrogen Small mobility & Engine technology)」**を設立しました。特別組合員として川崎重工業とトヨタ自動車も参画し、ライバル関係を超えた「協調領域」として水素エンジンの基礎研究を進めています。
各社の役割分担は明確です。ホンダが水素エンジンの設計方針を、スズキが水素特有の異常燃焼などの研究をそれぞれ担当。ヤマハとカワサキモータースは実際の水素エンジンを使ってデータを集める研究を担当します。さらに、外からタンクへの水素充填システムはヤマハが、タンクからエンジンへの燃料供給システムはカワサキモータースがそれぞれ担当しています。
世界一過酷な「ダカール・ラリー」での実証試験

HySEは、水素小型モビリティの課題抽出を目的に、世界一過酷と言われるモータースポーツ「ダカール・ラリー」に挑戦しています。2024年1月の「ダカール2024」では、新設された”Mission 1000″カテゴリーに、研究活動に用いているモーターサイクル用水素燃料エンジン(総排気量998cc)を搭載した「HySE-X1」で参戦し、初参戦ながら最終日まで走り切り、クラス4位を獲得しました。
2025年1月の「ダカール2025」には、高回転域の出力特性向上や低中回転域での燃費改善、水素タンクの増設(3本から4本へ、水素搭載量7.2kg)などの技術的課題に挑戦するため、HySE-X1からエンジンおよび車体をさらに進化させた「HySE-X2」を投入しました。
結果は驚異的でした。前年より距離が約230km伸びた厳しいコンディションの中、設定されたコースを100%走破し、クラス2位という好成績を収めたのです。同クラス優勝のチームでさえ100%に達しない状況で、唯一の完全走破を成し遂げました。注目すべきは、2025年大会ではアラブ首長国連邦から持ち込まれた「グリーン水素」(太陽光を使って生成したエネルギーでつくった水素)が使用されたことです。
全世界が注目するダカールラリーにおいて「HySE-X2」が、世界一過酷と言われる気象条件や路面状況が様々に変化する難コースを完走したことで、今後の研究課題につながる有用なデータの取得とともに、HySEのプレゼンスや水素エンジンの存在感および可能性を世界にアピールすることができました。
水素エンジン技術の最前線:製品化に向けた多角的な展開

ヤマハの水素エンジン開発は、研究段階を超え、具体的な製品化に向けて着実に歩みを進めています。
世界初公開:水素燃料デリバリーバイク「H2 Buddy Porter Concept」

2025年10月末から11月上旬に開催された「ジャパンモビリティショー2025」で、ヤマハは世界初公開となる水素燃料のデリバリー車両「H2 Buddy Porter Concept」を披露しました。これはトヨタと共同開発したコンセプトモデルながら、既に公道走行が可能な状態に作り込まれており、「もし販売するならこんな風に作る」というヤマハの本気度が伝わる展示となりました。
同車両は155ccスクーターをベースに、トヨタが新規開発した二輪向け水素タンクを4本搭載。タンク容量は合計23リットルで、1回の水素充填あたり約100kmの走行が可能です。このタンクは既存の二輪車向け高圧水素タンクの基準値上限のサイズで作られており、許可取得済みとのこと。
重要なのは、この車両が燃料電池ではなく、水素をエンジンで燃焼させて後輪を駆動する点です。ハードウェア的には、構造・原理はガソリン車両とほとんど同じで、水素と空気を分けて圧縮して、スパークプラグで火花を飛ばして燃焼させる既存技術の延長線上にあります。
ヤマハの水素エンジンチームの見立てとしては、このH2 Buddy Porter Conceptの見た目どおり、デリバリー業界である程度管理された使い方での製品化を目指しているといいます。
マリン用水素直噴エンジン:異常燃焼を克服した技術革新

水素燃料はガソリンに比べ「火がつきやすく燃焼速度が速い」一方で、異常燃焼(プレイグニション)が発生しやすいという難点があります。ヤマハは、**「マリン用水素直噴エンジン」**の開発において、扇状(Fan-shaped)の水素噴射により吸気タンブル流を強化し、筒内の混合気を均質化することで、異常燃焼を抑制しながら出力を向上させることに成功しました。
2025年3月に開催されたボートショーでは、国内初展示となった水素エンジン船外機を披露。実用化の時期は未定ですが、「いつでも出せるように準備を進めている」とマリン事業本部長が語っています。これにより、従来のプレジャーボートの利便性を維持しつつ、CO2排出ゼロを実現しています。
多様な製品群への水素エンジン展開

ヤマハの水素エンジン開発は、二輪車やマリン製品にとどまりません。
2024年1月には、米国で開催されたゴルフ業界最大級イベント「PGAショー」で、水素エンジン搭載ゴルフカーのコンセプトモデル「DRIVE H2」を世界初公開しました。4人乗りゴルフカー「DRIVE2 CONCIERGE4」をベースに、気体用高圧水素タンク2本(各25L)を運転席下と後部座席背面に搭載しています。
さらに、発電機やROV(レクリエーショナル・オフハイウェイ・ビークル)など、様々な用途での水素エンジン搭載コンセプトモデルを発表しており、ヤマハ発動機グループの脱炭素実現に向けた新たな挑戦を世界に発信しています。
製造工程からの脱炭素:水素エネルギー実証施設の新設

ヤマハは製品の使用時だけでなく、製造時のCO2排出削減にも注力しています。2024年7月、同社は水素ガスに対応する溶解炉と熱処理炉を備えた実証施設を森町工場(静岡県周智郡森町)に新設すると発表しました。
2025年より、水素ガスによるアルミ合金溶解技術の開発・検証をはじめ、施設・設備等に関わる総合的な実証実験を開始。2026年末には水素ガスによるアルミ合金の溶解および鋳造部品の熱処理に関する技術開発を完了し、2027年以降、グループの国内外鋳造工場に順次導入していく計画です。
実証実験では、水素ガスを用いた場合の品質への影響を検証するほか、水素バーナーによる温度制御等の開発を進めます。また、グリーン水素を製造する装置と、外部加熱を使わずに合成メタンを製造するメタネーション装置(静岡大学との共同研究)についても導入を検討しており、水素ガスを安価に製造する設備や、排気ガス中のCO2を再利用する技術開発にも取り組んでいます。
ヤマハが描く社会課題解決への多角的アプローチ

ヤマハ発動機は、ランドモビリティからマリン、ロボティクスに至るまで、極めて広範な製品群を通じて多角的に社会課題の解決を図っています。
脱炭素社会の実現とエネルギー転換
大型の船外機やスポーツバイクなど、バッテリーの重量やサイズが課題となる領域において、電動化だけでなく水素エンジンという選択肢を提供することで、持続可能な移動手段の確保を目指しています。
離島の沖永良部島では、名古屋大学と連携してモビリティの移動実態を調査し、再生可能エネルギーと連携した脱炭素社会の構築に向けた戦略的な提言を行っています。
地域コミュニティの活性化と移動の自由
「Town eMotion」プロジェクトでは、グリーンスローモビリティ(GSM)を活用し、地域の多様なニーズに応える「場づくり」を行っています。また、**「循環車」**という新たな構想を通じて、人々の交流と資源の循環を促すHUBとしてのモビリティを提案しています。
福祉・高齢化社会への対応
1995年から展開している車いす用電動ユニット「JW事業」は、10年ぶりのフルモデルチェンジとなる**「JWG-1」**を開発しました。「もっと力強く、もっと操作しやすく、もっと自由に」をコンセプトに、高齢者や障がいを持つ人々の自立した生活と社会参加を支援しています。
産業の自動化と生産性向上
ロボティクス事業では、半導体不足や労働力不足に対応するため、世界初の全自動ワイヤボンダ以来の技術を継承した**「UTC-RZ1」**などを提供し、バックエンドプロセスの自動化と省人化を推進しています。
カーボンニュートラルと利便性の両立:マルチパスウェイ戦略

ヤマハ発動機は、単なる環境性能の追求だけでなく、ユーザーの利便性や経済性を損なわない「マルチパスウェイ(多角的なアプローチ)」を戦略の柱としています。
電動化における付加価値の創出
小型モビリティの電動化では、単にモーターに置き換えるだけでなく、**「新型HARMO(ハルモ)」**のような次世代電動操船システムを開発しています。ジョイスティックによる直感的な操船や、水の音を楽しめる圧倒的な静粛性を提供し、環境負荷の低減と「自然との調和」という新たな顧客体験を両立させています。
2025年6月には欧州で先行発売していた電動船外機「ハルモ」を日本市場にも投入。電動ならではの環境性や静粛性を生かし、生活環境に近い運河などでの需要を狙っています。
製造工程における革新:板鍛造工法
従来の溶接や切削を、一枚の厚板から一体成形する**「YEC板鍛造工法」に転換することで、材料のロスを減らし、工程を大幅に削減しました。これにより、熱間鍛造と比較して製造時のCO2排出量を約56%削減**し、コスト低減と軽量・高強度化を同時に達成しています。
ダウンサイジングと電動アシストの融合

スポーツバイクの分野では、エンジンの排気量を縮小(ダウンサイジング)しつつ、**電動アシストターボ(E-Turbo)**を組み合わせる技術を実証しました。これにより、高い動力性能を維持したまま、CO2排出量を大幅に低減する方向性を示しています。
素材分野での環境対応
水上オートバイの部品に、玄武岩を溶かして紡糸する「バサルト繊維」と植物由来樹脂の複合材料の応用の可能性を探っています。また、海洋マイクロプラスチックゴミの回収装置を搭載した船外機の開発など、環境活動も積極的に進めています。
デジタルトランスフォーメーションが切り拓く次世代モビリティ

デジタル変革(DX)は、ヤマハ発動機のモノづくりとサービスのあり方を根本から進化させています。同社は「Y-DX1(経営基盤改革)」「Y-DX2(今を強くする)」「Y-DX3(未来を創る)」の3段階でDXを推進しています。
クラウドネイティブな開発環境の構築
IT部門では、AWSを中心としたクラウド技術を活用し、システム検証環境の構築リードタイムを従来のオンプレミス環境比で93%以上短縮しました。これにより、AIエージェントによる開発支援など、先端技術の試行錯誤を迅速に行い、市場ニーズに即応したサービス提供が可能となっています。
知能化による安全性とUXの革命的向上:TRACER9シリーズの挑戦

車両の「知能化」において、ヤマハは二輪車の常識を覆す革新的な技術を次々と実用化しています。
2025年モデルの「TRACER9 GT+」では、二輪車世界初となる技術を複数搭載しました。まず、マトリクスLEDヘッドランプを二輪車として世界で初めて採用。複数のLEDランプの構成体がHiビームとして照射しながら、カメラの認識に従って自動的に部分的に点消灯し、対向車や先行車を眩しくさせることなく、進行方向に光を当てることができます。
さらに注目すべきは、ミリ波レーダーを活用した**「アダプティブクルーズコントロール(ACC)」と自動変速システム「Y-AMT(Yamaha Automated Manual Transmission)」の連携です。これは四輪のオートマチック車と同様、追従走行中にシフトアップとダウン、もしくはその維持をシステムに託すことができる二輪車世界初**の制御です。
Y-AMTは、クラッチ操作とシフト操作をアクチュエーターが担うことで、変速操作を自動化したシステムです。「MTモード」と「ATモード」があり、状況やライダーの好みに応じて切替が可能。「ATモード」で走行中にACCを作動させている場合、定速走行中のギア選択の他、車速の増減によっても「Y-AMT」が自動的に変速します。
これによって両手両足の操作負荷を劇的に軽減させ、定速走行時は変速頻度を下げた専用のシフトプログラムを用意する一方、急減速時は素早いシフトダウンで減速感の向上を図るなど、より快適で落ち着いた走行性を実現しています。
また、車体後方にもミリ波レーダーを追加し、後方から接近してくる車両を検知しミラー内に表示する機能**「BSD(Blind Spot Detection)」**も搭載。KYB製電子制御サスペンション「KADS」は、IMUが検知した車体姿勢とその時の加速度、サスペンションのストロークスピード、ブレーキの液圧といった変化に応じて、減衰力を自動的に調整します。
ソフトウェア・ディファインド・ビークル(SDV)への対応
ソフトウェアによって機能が定義・更新されるSDVへの対応力を強化するため、日立アステモなどのパートナーと協力し、IT企業が集積する東京・渋谷に先端技術の開発拠点を新設しています。生成AIを車内システムに導入する試みも進んでおり、音声認識やユーザー体験(UX)の革新を目指しています。
製造現場のデジタル化と自動化
生産ラインの8割以上を自動化しているパートナー企業との連携や、VR(仮想現実)を活用した設備導入前のリスクアセスメントなどを通じて、作業品質の安定化と労働災害の低減を追求しています。
アナロジー:水素エンジン開発は「伝統芸能の進化」に似ている

ヤマハの水素エンジン開発は、例えるなら**「伝統的な和楽器に最新のデジタル音響技術を融合させて、全く新しい音楽ジャンルを創り出す」**ような試みです。
長年培ってきた「エンジン(和楽器)」の音色や魂、供給網(伝統の継承)を大切に守りながら、そこに「水素(新しい技術)」というクリーンなエネルギーを吹き込む。そしてDX(音響技術)によってその性能を極限まで引き出す。この「伝統と革新の絶妙なバランス」こそが、ヤマハ発動機が描くカーボンニュートラル時代のモビリティ社会の姿なのです。
結びに:内燃機関の未来を切り拓く情熱
ヤマハ発動機の水素エンジン開発は、単なる環境対応技術ではありません。それは、創業以来受け継がれてきた「発動機」への情熱と、「感動」を届けるというDNAを未来へ繋ぐための戦略的な選択です。
電動化が進む中でも、水素エンジンは既存のサプライチェーンを維持できる可能性を秘めています。ガソリンエンジンの需要が減少しても、水素エンジンが普及すれば部品メーカーなどで構成する現在のサプライチェーンを維持できる――これは日本のモノづくりを支える無数の中小企業にとっても、極めて重要な選択肢となり得ます。
HySEの活動、ダカール・ラリーでの完全走破、そして様々な製品への水素エンジン展開。これらすべてが示しているのは、ヤマハが描く「多様性のある未来」です。電動化という一つの答えに収束するのではなく、水素エンジン、電動化、そしてその融合まで含めた「マルチパスウェイ」によって、地球環境と人々の移動の喜びを両立させる――それがヤマハ発動機の挑戦なのです。
創立70周年を迎える2025年、ヤマハ発動機は内燃機関への情熱を胸に、カーボンニュートラル社会という未来へ向けて、力強く歩みを進めています。

