2025年6月、インドで発生した旅客機の着陸事故は、改めて揚力制御の重要性を我々に思い起こさせました。しかし、この「揚力」という力学現象は、実は自動車業界にも深く関わる重要なテーマです。自動車業界関係者として知っておくべき空力技術の最新動向から、過去の事故事例、そして最新の風洞実験技術まで、包括的に解説いたします。

揚力とは何か? ~基礎から理解する空力学~
揚力とは、空気の流れによって物体が上に押し上げられる力のことです。飛行機の翼(エアフォイル)では、上側がカーブし、下側が平らになっている形状により、空気が速く流れる上側の気圧が下がることで、下から上に持ち上げられる力が発生します。

ベルヌーイの定理により、流速が速い部分では圧力が低くなるため、翼の上下で圧力差が生じ、結果として揚力が発生するのです。この原理は、重さ数百トンにもなる航空機を空に浮上させる原動力となっています。
自動車業界が直面する「望ましくない揚力」の現実
高速走行時に発生する揚力の仕組み

自動車においては高速道路などスピードを出して走行する際、空気抵抗によって車体の上下に空気の流れの差が生じ、クルマが浮き上がる力を指すとされています。
自動車のボディ形状が空気の流れを受けると、以下のメカニズムで揚力が発生します:
- フロント部での空気分離: ボンネットやフロントガラスの角度により、車体上部の空気流速が増加
- アンダーフロアでの圧力増加: 車体下部に空気が潜り込み、上向きの圧力が発生
- リア部での渦流発生: トランク部やリアガラスの形状により、後方で低圧域が形成
前輪に揚力が働くとハンドル操作に影響を及ぼし、後輪に働く揚力は走行の安定性を欠如させるなどの問題があるため、特に高性能車では揚力対策が不可欠となっています。
過去の自動車事故から学ぶ揚力の危険性

自動車における揚力が原因となった事故は、これまで数多く報告されています。特に以下のような状況で揚力による事故リスクが高まります:
1. 高速道路での突風時の車両不安定
- 時速100km/h以上での走行中、横風と相まって車体が浮き上がり、操縦不能に陥るケース
- 特に軽量な軽自動車やスポーツカーで頻発
2. トンネル出口での急激な空気流変化
- トンネル内外の気圧差により、突然の揚力変化で車両がふらつくケース
- 大型トラックの後方を走行中に発生する空力的影響
3. オーバーパス通過時の風の影響
- 橋梁部での強風により、車体に予期しない揚力が発生するケース
これらの事故事例から、レーシングカーなどスピードを重視する車体の場合、この揚力を極力発生させないように工夫が施されていることの重要性が明らかになっています。
自動車風洞実験の最前線 ~見えない空気との格闘~
風洞実験設備の進化

風洞実験装置は、自動車メーカーにとって不可欠の設備となっており、シャシーの開発、レーシングカーのボディ形状は風洞実験を中心にして進められる状況にあります。
現代の自動車風洞実験施設は、以下の高度な機能を備えています:
実車風洞の特徴:
- 走行中の車両まわりの空気の流れを台上で再現し、車両に働く力を計測する装置
- 風速200km/h以上での測定が可能
- 6分力計による精密な力測定(前後力、左右力、上下力、ピッチング、ヨーイング、ローリングモーメント)
ムービングベルト装置: 競技用車両で重要な床下流れを正確に再現する為にムービングベルト装置(高速で回るベルトコンベアのようなもの)を備えています。これにより、実際の走行状態により近い条件での測定が可能となります。
CFD(数値流体力学)との融合
近年のコンピューター性能の向上は凄まじく、それに伴いエンジニアリングにおいても、コンピューター上で仮想的に性能予測や性能試験等を積極的に行うようになってきました。
現在の自動車開発では、風洞実験とCFD解析を組み合わせたハイブリッド開発手法が主流となっています:
CFDの利点:
- 設計初期段階での迅速な検証
- 風洞実験では困難な内部流れの可視化
- パラメータスタディによる最適化
風洞実験の利点:
- 実際の物理現象の正確な再現
- CFD解析の妥当性検証
- 予期しない流れ現象の発見
最新車種に採用される空力デザインの秘密
カーボンニュートラル時代の空力技術
「2050年カーボンニュートラルの実現」に向けては、内燃機関搭載車か電気自動車かを問わず、燃費/電費を向上させていくことが重要になる。空気抵抗の低減は燃費/電費の向上に直結するため、空力開発の重要性が増している状況です。
最新の空力技術トレンド
1. アクティブエアロダイナミクス
- 可変式フロントスポイラー
- 自動開閉式グリルシャッター
- アクティブリアウイング
2. アンダーフロア最適化
- フラットフロア設計
- ディフューザー形状の最適化
- エアロダクトによる整流
3. デジタル空力開発
- AI活用による形状最適化
- リアルタイム空力解析
- バーチャル風洞技術
揚力係数の業界基準
揚力の大小を示す揚力係数はCLで示される。風洞内の天秤ではかるときは、前輪と後輪で区別してはかり、前輪の揚力係数はCLf、後輪の揚力係数はCLRで表すとされています。
一般的な揚力係数の目標値:
- セダン車:CL = 0.1~0.3
- スポーツカー:CL = -0.1~0.1(ダウンフォース域)
- SUV:CL = 0.2~0.4
- 軽自動車:CL = 0.3~0.5
空力とADAS技術の融合
部品の冷却やADAS関係のカメラ・センサー類への泥等の付着回避など、複合的な設計要件がうまく調和して満たされるように空気の流れを制御することが大事という新たな課題も生まれています。
自動運転技術の普及に伴い、センサー周辺の空力設計が極めて重要になっています:
センサー周辺の空力課題:
- LiDARセンサー周辺の乱流抑制
- カメラレンズへの水滴・汚れ付着防止
- レーダーセンサーの電波伝播への空力影響
業界展望:未来の空力技術

電動化時代の新たな課題
電気自動車の普及により、空力開発には新たな要求が生まれています:
バッテリー冷却への空力活用:
- 効率的な冷却気流の設計
- 熱管理システムとの統合
静粛性向上:
- 風切り音の低減
- 空力騒音の抑制
スーパーコンピューター活用の拡大

写真は「Miyabi」
「京」での空力シミュレーションは、車の開発をどのように変えるのでしょうかという研究が進められており、今後はより高精度な空力予測が可能になると予想されます。
まとめ:空力技術の重要性と今後の展望
インドの旅客機事故を機に改めて注目された揚力という現象は、自動車業界においても極めて重要な技術課題です。
業界関係者が押さえるべきポイント:
- 安全性への直接的影響: 揚力は車両の操縦安定性に直結する重要な要素
- 環境性能との密接な関係: カーボンニュートラル達成には空力最適化が不可欠
- 先進技術との融合: ADAS、自動運転技術との統合が新たな開発テーマ
- 開発手法の進化: 風洞実験とCFDの融合による効率的な開発プロセス
今後、電動化、自動運転化が進む中で、空力技術はますます重要性を増していくでしょう。業界関係者として、この技術動向を常に把握し、最新の知見を業務に活かしていくことが求められています。
風を制する者が、次世代モビリティの覇者となる。そんな時代が、すでに始まっているのです。
本記事は、最新の技術動向と業界情報を基に、自動車業界関係者向けに専門的な視点から解説したものです。空力技術の詳細については、各メーカーの技術資料や学術論文もご参照ください。