導入:沈静化どころか「慢性的な危機」へ入った現場
「令和のオイルショック」発覚から時間が経過した現場の真実
自動車業界に身を置いて46年、私はオイルショックの余波、バブル崩壊、排ガス規制の強化、幾度もの自然災害によるサプライチェーン寸断など、数多くの激動を目の当たりにしてまいりました。しかし、現在進行形で全国の自動車ディーラーを揺るがしている「エンジンオイルの供給不足問題」は、これまでに経験したどの危機とも性質が異なります。
発覚当初、世間や一部の報道では「一時的な物流の混乱」「数ヶ月待てば元通りになる調整局面」と楽観視する向きもありました。しかし、現場の実態は沈静化に向かうどころか、日を追うごとに泥沼化の様相を呈しています。現在起きているのは、単なるモノの不足ではありません。自動車の流通と整備ビジネスを長年支えてきた基盤そのものが、根底からきしみを上げているのです。
かつて日本の自動車ディーラーは、「いつでも気軽にお立ち寄りください」「オイル交換なら予約なしでも迅速に対応いたします」という手厚いアフターサービスを強みとしてきました。それが今や、看板を掲げながらも「オイルがないため作業をお受けできません」と頭を下げ続ける異常事態に陥っています。
最新データが示す「7割が入庫制限」「3割が価格転嫁できず」という衝撃
業界の最新動向を示すデータ(日刊自動車新聞等の調査)によって、現場が直面している冷酷な現実が白日の下にさらされました。
- 新車ディーラーの約7割が、現在もオイル交換を伴う作業の「入庫制限」を実施している
- 仕入れ価格が大幅に上昇しているにもかかわらず、約3割の拠点が「価格転嫁(値上げ)を行えていない」
この二つの数値は、現場が単に作業を制限しているだけでなく、収益面でも強烈な出血を強いられている事実を端的に物語っています。7割の店舗で通常通りの受け入れができないという事実は、もはや特定の地域や特定系列のトラブルではなく、日本全国の自動車整備インフラが機能不全に陥りかけていることを意味します。
さらに深刻なのは、原価が跳ね上がっているにもかかわらず、そのコストを価格に反映できず、店舗側が身銭を切って耐え忍んでいるという構図です。仕入れ先からの納品遅延と値上げ要請、そしてお客様からの厳しい要求やクレームの間に挟まれ、ディーラーの整備部門はまさに限界寸前の状況に追い込まれています。
一時的なパニックから「構造的な慢性危機」へ——46年のキャリアから見る異変
46年間にわたり業界を見つめ続けてきた立場として、私が最も強い危機感を抱いているのは、この問題が「突発的なパニック」から「構造的な慢性危機」へとフェーズを完全に移行させてしまった点です。
突発的な災害による部品不足であれば、ラインの復旧や代替生産の立ち上がりによって出口の時期をある程度予測できます。しかし今回のオイル不足は、世界的な原材料調達の制約、国内の精製・配合能力の偏り、極端に最適化されすぎたジャスト・イン・タイムの物流網の脆弱性、さらには現代の内燃機関が求めるシビアな性能要求など、複数の構造要因が複雑に絡み合っています。
その結果、現場では「いつになったら潤沢にオイルが入ってくるのか」という見通しがまったく立たないまま、日々の入庫管理と在庫の割り当てに追われ続けています。現場のスタッフは疲弊し、長年培ってきた顧客との信頼関係は摩耗し、整備部門の採算ラインは急速に悪化しています。
本稿では、基礎的な技術論や過去の経緯の繰り返しは避け、今まさに現場で何が起きているのか、「7割入庫制限」「3割価格転嫁不能」という数字の裏側にある過酷な実態と構造的トラップについて、プロの視点から包み隠さずお伝えしてまいります。
第1章:「7割が入庫制限」の真実——現場で起きている優先順位のスクリーニング

全国ディーラーの入庫制限・受付方針の現状
全国の現場で実際に敷かれている受付体制は、大別して以下のような実態となっています。
- 通常通りの受付が可能な店舗:約30%
- 早期に独自ルートを確保できた拠点や、極端に保有台数の少ない一部の地域・系列に限られます。
- 入庫制限を実施している店舗:約70%
- 飛び込み来店・オイル単独作業:原則として受入停止(完全お断り)
- 法定12ヶ月点検・車検:事前予約制にて優先受入
- メンテナンスパック加入車両:最優先確保(ただし月間予約枠の上限を厳格に設定)
なぜ緊急対応を経ても7割の拠点で入庫制限が続くのか
供給不足の表面化以降、各方面で直販ルートの開拓や融通など様々な緊急対応が試みられてきました。にもかかわらず、なぜ最新の調査でも依然として7割もの拠点が入庫制限を解除できないのでしょうか。
最大の理由は、ディーラーに入荷するオイルの絶対量が、従来の月間消費量に対して「50%から70%程度」で完全に頭打ちになっているためです。ドラム缶やバルクローリーでの定期配送は大幅に間引きされ、発注した数量の半分しか届かない「割り当て配給」の状態が続いています。
100台分のオイルが必要な作業現場に、毎月50〜70台分しか届かない状況を想像してみてください。どれほど現場が作業効率を高めても、物理的に充填する油脂がなければ車をリフトから下ろすことはできません。入荷の目処が立たない以上、入庫台数そのものを絞り込まなければ、受託した作業を完了できないまま工場がパンクしてしまいます。これが、7割の店舗が入庫制限を継続せざるを得ない単純にして冷徹な力学です。
「飛び込み作業の全面拒絶」と「定期点検・車検優先」への強制シフト
この入荷制限下において、現場で真っ先に行われたのが「受付業務の抜本的な選別(スクリーニング)」です。
かつてディーラーの収益源であり、顧客接点の重要な機会であった「通りがかりのオイル交換」「電話一本で即日対応するクイック作業」は、全国の店舗からほぼ完全に姿を消しました。現在の現場では、以下のような厳格なトリアージ(優先順位付け)が日常化しています。
- 【最優先】法定車検および法定12ヶ月点検(油脂交換が保安・運行に直結するため)
- 【優先】メンテナンスパック加入車両の定期メンテナンス
- 【制限的対応】一般予約による点検・整備(走行距離や使用期間を精査の上で判断)
- 【受入拒否】予約なしの飛び込み来店によるオイル交換単独作業
- 【受入拒否】他社購入車両や新規顧客のオイル交換単独作業
フロントデスクでは、毎日のように「なぜ看板を出しているのにオイル交換ができないのか」「オイル交換くらい15分で終わるだろう」と憤るお客様に対し、頭を下げて状況を説明し、お断りする対応に追われています。顧客との関係構築を何より大切にしてきた現場にとって、来店したお客様を自ら追い返すようなこの業務は、精神的な苦痛以外の何物でもありません。
メンテナンスパック契約者を守るための「苦渋のスクリーニング」実態
現場が最も神経をすり減らしているのが、「すでに前払いで点検整備費用をいただいているメンテナンスパック加入のお客様」へのオイル確保です。
メンテナンスパックは、数年先までの点検費用とオイル交換費用をパッケージ化して前払いで販売している商品です。お客様から見れば「すでに対価を支払っている確定権利」であり、ディーラー側からすれば「何があっても履行しなければならない契約上の義務」にあたります。
もし、飛び込みの新規客にオイルを使ってしまい、週末に予約されているメンテナンスパックのお客様の車に入れるオイルが底をついたとすれば、それは重大な契約不履行となり、企業の信用を根本から失墜させます。
したがって、現場では「毎月入荷する限られたオイル残量」から、まず「当月予約されているメンテナンスパック車両の必要量」を差し引き、残ったわずかなバッファを車検や法定点検に割り振るという、極めてシビアな引き算のオペレーションを余儀なくされています。その結果、新規の顧客やパック未加入のお客様に対しては「オイルの在庫がございません」と回答せざるを得ないのです。
現場で行われている「オイル在庫台帳」と配分シミュレーションのリアル
現在、多くのディーラーのバックオフィスでは、過去に類を見ないほど厳密な「オイル在庫管理シミュレーション」が日々行われています。
かつてはドラム缶の残量をゲージで大まかに確認し、減ってきたら定期発注をかけるという運用が一般的でした。しかし現在では、以下のような極めて緻密な管理が常態化しています。
- 翌月および翌々月の点検予約台数をエンジン型式・指定粘度ごとに全数集計
- 車両ごとに必要なオイル規定量(例:3.2L、4.0L、4.8L等)を小数点第一位まで積み上げ計算
- 配給予定数量との差引残高を日次ベースで算出
- 安全在庫ラインを下回る恐れがある場合、即座に該当期間のWeb予約枠を停止
【月次オイル配分シミュレーションの現場イメージ】
- 当月の配給確定量:600 リットル
- 引当内訳(車検予定):40台 × 平均4.0L = 160 リットル
- 引当内訳(法定点検・点検パック):80台 × 平均3.8L = 304 リットル
- 突発的な重整備・修理用予備:40 リットル
- 差引残量(一般予約の受入可能枠):わずか 96 リットル(実質20〜24台分程度)
- 現場の運用判断:月末までの突発的なオイル交換受付は「1日あたり1台未満」に厳格制限
現場の管理者は、毎朝オイルタンクの残量をミリ単位でチェックし、整備予定表とにらめっこをしながら「今日の午後の予約が1台増えたら、来週の車検分のオイルが足りなくなるかもしれない」という極度のプレッシャーの中で采配を振るっています。このような張り詰めた緊張感の中で日々の業務が回されているのが、入庫制限7割という数字の裏にある現場の真実です。
第2章:仕入れ高騰なのに「3割が転嫁できない」構造的トラップ
仕入れ価格20〜35%上昇の直撃と、値上げに踏み切れない現場の事情
現場を苦しめているもう一つの巨大な刃が、仕入れ価格の急激な高騰です。
ここ1〜2年の間に、ベースオイルの調達コスト、添加剤の国際価格高騰、容器代や輸送用燃料費の上昇などが一気に押し寄せ、ディーラーが仕入れる純正・準純正オイルの卸価格は、品目によって20%から35%以上も跳ね上がりました。
通常、製造業や流通業であれば、仕入れ原価が3割上がれば相応の製品価格・サービス料金の値上げを実施しなければ採算が合いません。しかし、前述の調査が示す通り、新車ディーラーの約3割は価格転嫁に踏み切れておらず、残る7割についても「値上げはしたが、仕入れの上昇分を完全にはカバーできていない(部分転嫁)」というケースが大半を占めています。
なぜ、これほどのコスト増に直面しながら、ディーラーは適正な価格転嫁を行えないのでしょうか。そこには、自動車ディーラー特有のビジネスモデルが抱える構造的なトラップが存在します。
【オイル交換1台あたり(4L想定)の収支構造変化イメージ】
- 通常期の収支モデル
- 仕入れ原価:3,000円
- 交換工賃等:2,000円
- 定価設定:6,500円
- 差引利益:+1,500円(適正マージンの確保)
- 現在(価格据え置き・パック消化)の収支モデル
- 仕入れ原価:4,000円(原価が約33%高騰)
- 交換工賃等:2,000円
- 契約時定価:5,500円(パック契約時の事前一括割引価格)
- 差引利益:▲500円(完全な赤字持ち出し)
【核心】前払い型ビジネスモデル「メンテナンスパック」の罠
この「価格転嫁できない」最大の元凶となっているのが、皮肉にもディーラー経営の柱として長年推進されてきた「メンテナンスパック(定期点検前払いパッケージ)」です。
メンテナンスパックは、新車購入時や車検時に、向こう3年間〜5年間の定期点検基本料、オイル交換(年1〜2回)、オイルフィルター交換などをセットにし、通常料金よりも大幅に割り引いた価格で一括契約していただく商品です。ディーラーにとっては「顧客の囲い込み(他社流出防止)」と「将来のサービス売上の早期確定」という二重のメリットがあり、業界全体で加入率の向上が至上命題とされてきました。
しかし、このモデルは「将来にわたって部品・油脂の仕入れ原価が大きく変動しない」という暗黙の前提の上に成り立っています。
- 3年前に販売したメンテナンスパック:当時の低いオイル仕入れ原価を基準に価格設定されている
- 現在実施しているオイル交換:30%以上高騰した高値の仕入れオイルを使用しなければならない
お客様はすでに3年前、当時の価格で前払いを済ませています。「仕入れが上がったので、追加で1回あたり2,000円のオイル代を払ってください」などという請求が法的に通用しないことは言うまでもありません。
つまり、メンテナンスパックの加入率が高く、優良顧客を多く抱えている優秀な店舗ほど、高騰したオイルを旧価格のまま演出し続けなければならず、作業を行えば行うほど整備部門の利益が削り取られていくという、悪夢のような逆ザヤ構造に陥っているのです。
旧価格契約と原価高騰の狭間で膨らむサービス部門の赤字構造
この前払い契約のタイムラグによる損失は、拠点の収益に壊滅的な打撃を与えています。
一般的な規模の新車ディーラー拠点であれば、月に数百台規模のメンテナンスパック車両が入庫します。1台あたりのオイル交換にかかる原価が1,000円〜1,500円上昇し、それを一切転嫁できないとすれば、それだけで毎月数十万〜数百万円単位の予期せぬ利益消失が発生します。
自動車ディーラーの収益構造において、新車販売の粗利益率が年々低下する中、点検・整備を中心とするサービス部門(アフターセールス)は、店舗の固定費を賄うための生命線(いわゆるサービス吸収率の要)でした。そのサービス部門の稼ぎ頭であるはずの油脂類が赤字転落あるいは極度の採算悪化に陥っているため、拠点全体の経営バランスが大きく崩壊し始めています。
「売上高(入庫台数)は維持しているのに、月末の試算表を見るとサービス部門の利益が激減している」——これが、現在多くのディーラー経営陣が頭を抱えている現実です。
地域感情、競合対策、メーカー推奨価格の「三重苦」がもたらす経営圧迫
メンテナンスパック以外の一般整備顧客に対しても、簡単に値上げを行えない現実があります。そこにはディーラーを取り巻く「三重苦」の制約が存在します。
- 地域密着の顧客感情への配慮
特に地方部においては、車は生活必需品であり、ディーラーと顧客は数十年にわたる濃密な付き合いをしています。物価高全般で生活が圧迫されているユーザーに対し、「オイル不足だから値上げします」と告げることは、激しい反発を招き、長年の信頼関係を一瞬で破壊するリスクを孕んでいます。 - 近隣の整備工場・カー用品店との価格競争
オイル交換は、ユーザーにとって最も価格比較がしやすいサービス項目の一つです。ディーラーが仕入れ高騰に耐えかねて価格を大幅に引き上げれば、顧客が近隣のカー用品チェーン店や独立系整備工場へ流出し、二度と戻ってこないのではないかという強い恐怖感があります。 - メーカー推奨標準価格(レギュラープライス)との板挟み
多くの場合、点検整備の標準料金や工賃単価はメーカー側のガイドラインや推奨価格がベースになっています。拠点の判断だけで勝手に価格を急騰させることは難しく、本部と現場、メーカーと販社の間で調整が難航している間に、現場が損失を被り続けることになります。
このように、前払いパックの拘束、地域感情と競合への警戒、そして制度的な制約が複雑に絡み合い、結果として「仕入れが高騰しても3割の拠点が指をくわえて耐えるしかない」という異常な膠着状態が作り出されているのです。
第3章:現場を襲う「コミュニケーションの不全」と運用の限界
「オイル交換くらいすぐやってくれ」という顧客意識との深刻な乖離
供給不足が長期化する中で、最も過酷な状況に置かれているのは、店舗の最前線でお客様と直接対面する現場のスタッフです。
一般の自動車ユーザーにとって、エンジンオイルは「ガソリンと同じように、行けばいつでもそこにあるもの」という認識が長年定着しています。どれほど業界内で不足が叫ばれていても、店舗のショールームに一歩足を踏み入れれば、お客様はこれまで通りの迅速で手厚いサービスを期待されます。
- 「今まで30分でやってくれたのに、なぜ来月まで待たされるのか」
- 「オイル交換ごときに、なぜ予約が必要なんだ」
- 「点検パックのお金を払っているのに、希望の日時に作業できないとはどういうことか」
フロントデスクでは、連日のようにこのようなお叱りの声を受け止め続けています。スタッフは「大変申し訳ございません。現在、全国的な供給制限により……」と丁重に説明を繰り返しますが、すべてのユーザーにご納得いただけるわけではありません。時には「ディーラーの怠慢だ」「誠意が足りない」と厳しい言葉を浴びせられることも日常茶飯事です。
この顧客の当たり前の期待と、現場の物理的な供給限界との間にある「深刻な温度差」が、現場スタッフの心を確実にすり減らしています。
なぜ「安価な社外品や持ち込みオイル」で代替できないのか——技術・保証・法的リスク
外部の評論家や事情を知らないユーザーからは、「純正オイルが足りないなら、市場に流通している安価な汎用オイルや社外品を適当に使えばいいではないか」「ユーザーがネットで買ったオイルを持ち込ませれば解決する」という安易な意見が散見されます。
しかし、業界に身を置く者として断言しますが、現場がそれを実行できないのには、極めて論理的かつ重大な技術的・法律的理由が存在します。
【安易な社外品・持ち込みオイルを採用できない4大リスク】
- 保証責任の喪失リスク
- 指定規格外のオイルを使用したことに起因するエンジン破損が発生した場合、メーカーの新車保証が一切適用されなくなります。
- 適合性・技術的リスク
- 超低粘度化・直噴ターボ・ハイブリッドなどの精密エンジンに対し、未検証オイルでは十分な耐久性や性能維持が担保できません。
- 容器管理・異物混入トラブル
- 持ち込みオイルの真贋(本物か偽物か)や保管状態の確認が現場では不可能です。
- ディーラーの法的責任(製造物責任・善管注意義務)
- プロとして安全を担保できない油脂を充填し事故が発生した場合、整備責任を問われ損害賠償リスクを直接背負うことになります。
現代の自動車用エンジンは、排ガス規制のクリアと燃費性能の極限追求のため、驚くほど精密な設計がなされています。特定の添加剤配合や特定のせん断安定性を前提として設計された最新エンジンに、規格適合が曖昧な汎用オイルや社外品を使用した場合、以下のような致命的な不具合を招く危険性があります。
- LSPI(低速早期着火)の発生によるピストンおよびコンロッドの破損
- タイミングチェーンの異常摩耗や伸びによるバルブタイミングの狂い
- 排気ガス後処理装置(GPF/DPFや触媒)の目詰まり・劣化
- 油圧制御可変バルブタイミング機構の作動不良
もしディーラーが「オイルがないから」という理由で未承認の社外品を使用し、数千キロ走行後にエンジンブローが発生した場合、メーカーの新車保証は一切適用されません。その全額補償責任(場合によっては100万円を超えるエンジン載せ替え費用)は、独断でそのオイルを入れたディーラー店舗が背負うことになります。
また、ユーザーからのオイル持ち込み作業についても同様です。万が一、持ち込まれたオイルが粗悪品や偽ブランド品であった場合、あるいは粘度選択が誤っていた場合、トラブルが起きた際に「持ち込んだ客の責任か」「それを確認せずに入れた整備工場の責任か」で泥沼の法廷闘争に発展します。
プロフェッショナルとしての品質保証責任、そしてメーカーの正規代理店としてのコンプライアンスを遵守する以上、現場は「素性の定かでない代替品に安易に手を出す」ことなど絶対にできないのです。
オイルが「当たり前の消耗品」から「厳重管理資産」へ変貌した現場の精神的疲弊
こうした供給難と厳格な責任関係の中で、工場内におけるオイルの位置づけは完全に激変しました。かつては水や空気のように自然に使われていたドラム缶のオイルが、今や「1滴の無駄も許されない厳重管理資産」となっています。
整備工場では、作業ごとのオイル計量カップの使用が徹底され、規定量を超える過剰注入(いわゆるサービスでの多め入れ)は固く禁じられています。抜き取り作業やジョッキへの移送時にも、こぼれ落ちるオイルがないよう、スタッフは細心の注意を払わなければなりません。
「オイルを無駄にしたら作業予定全体が狂ってしまう」というプレッシャーは、日々整備に従事するスタッフにとって見えない重圧となり、作業効率の著しい低下と精神的疲弊をもたらしています。
「一滴もこぼせない」緊迫感と作業効率低下の悪循環
オイルの取り扱いにこれほどの神経を使うことになれば、当然ながら作業スピードは落ちます。
従来であれば、リフトアップからドレンボルト脱着、オイル注入、レベルゲージ確認まで流れるようなルーティンで完了していた作業が、現在では以下のような幾重もの確認ステップを踏むようになっています。
- 作業指示書の車両型式と指定オイル銘柄の完全照合(間違いは許されない)
- 在庫システムからの払い出し登録と現物シリアル・ロットの確認
- 計量器を用いたミリリットル単位での厳密なオイル採取
- 充填後のレベルゲージによる規定範囲(上限と下限の中間値)のダブルチェック
- 抜いた廃油の状態確認(早期交換が必要な車両かどうかのシビアな診断)
こうした厳格化は、品質管理の観点からは正しい姿と言えますが、ただでさえ人手不足に喘ぐ整備現場の生産性を著しく削ぎ落としています。1台あたりの作業時間が伸びることで、1日にこなせる入庫台数はさらに減少し、それがまた新たな入庫待ちの列を生み出すという、出口の見えない悪循環に陥っているのです。
第4章:長引く有事の中で、業界とユーザーが取るべき現実的な着地点
オイル危機下における「新しい愛車維持の共通認識」
この非常事態を乗り切るためには、双方が以下のような共通認識を持ち、足並みを揃えることが不可欠です。
【ユーザー側に求められる対応】
- 2〜3ヶ月前からの「計画的な定期点検・車検予約」の徹底
- 無駄なアイドリングや短距離走行(シビアコンディション)の抑制
- 「指定粘度・純正規格」の重要性に対する正しい理解
- ネット通販等の格安・出所不明オイルに対する警戒
【ディーラー・業界側に求められる姿勢】
- 在庫状況と受入可能枠に関する「透明性の高い事前告知」
- 交換時期の科学的・合理的判断(過剰な早期交換提案の見直し)
- 代替油・適合油に関するメーカーとの迅速・密接な情報連携
- 単なる作業請負窓口を超えた「維持管理の相談窓口」としての機能強化
有事の日常化に伴うユーザー側の意識変革(計画予約・走行管理・指定油順守)
このオイル供給問題は、残念ながら明日明後日に劇的な解決を見ることはありません。私たちは「この不自由な環境が当面の間、日常として続く」という前提に立ち、自動車との付き合い方を根本から再構築する必要があります。
ユーザーの皆様に何よりお願いしたいのは、「愛車のメンテナンスに対する時間軸のシフト(前倒し)」です。
- 点検・オイル交換は「思い立った時」ではなく「2〜3ヶ月前」に予約する
- 車検や法定点検の案内が届いたら、後回しにせず即座に日程を確定させる
- 日頃の走行距離を把握し、次回の交換推奨タイミングを逆算してスケジュールを組む
また、車両側のコンディション維持も極めて重要です。オイルの劣化を少しでも遅らせるためには、エンジンが温まり切らない短距離走行(いわゆるチョイ乗り)の繰り返しや、長時間のアイドリングといった「シビアコンディション」に該当する走行パターンを極力避ける工夫が有効です。オイルを長持ちさせる丁寧な乗り方を心がけることが、結果として愛車の寿命を守り、現場の逼迫を和らげることにつながります。
ネット通販等で出回る「格安・粗悪オイル」への強い警鐘
入庫制限や値上げのニュースを見て、「ディーラーがダメならネットで一番安いオイルを買って、自分で交換するか近くのスタンドに持ち込もう」と考える方が増えています。しかし、業界に46年身を置いてきた者として、この行動には極めて強い警鐘を鳴らさざるを得ません。
現在、国内外のECサイトやオークションサイト等において、大手有名ブランドや純正品を精巧に模倣した「偽造オイル」や、規格表示(API規格や粘度指数)を偽装した「粗悪リサイクルオイル」が大量に出回っています。
パッケージだけは最新の規格名を謳っていても、中身は数世代前の劣悪なベースオイルに低品質な添加剤を混ぜただけの代物や、一度使用された廃油を簡易ろ過しただけの危険な液体であるケースが実際に報告されています。
このような粗悪オイルを現代の高性能・高効率エンジンに一度でも充填して走行すれば、わずか数百キロでスラッジ(油泥)が堆積し、油路の閉塞、可変バルブタイミング機構の固着、最終的にはエンジンの焼き付きやブローという最悪の結末を引き起こします。
「数千円のオイル代を節約しようとした結果、100万円を超えるエンジンの全損事故に至る」——これは決して脅しや大げさな話ではなく、現場で実際に起きている悲劇です。どれほど手に入りにくい状況であっても、出所の不確かな格安オイルに安易に手を出すことだけは、絶対におやめいただきたいと強く訴えます。
単なる受発注を超えた「愛車を維持するためのパートナーシップ」の構築へ
今回の危機を通じて私たちが痛感しているのは、ディーラーとユーザーの関係性が、従来の「代金を払って作業を丸投げする顧客」と「言われた通りの作業をこなす請負業者」という単純な受発注関係のままでは、もはや愛車の安全を維持できないという事実です。
これからの時代に必要なのは、双方が厳しい現実を共有し、互いに協力し合って一台の車を良好な状態で維持していく「パートナーシップ(協調関係)」です。
- 現場は、在庫状況や作業の可否について嘘偽りのない正確な情報を早期に開示する
- ユーザーは、現場の制約を理解し、計画的な予約と無理のない運行管理に協力する
- 互いにプロの知見とオーナーの愛車への想いを尊重し合い、最適な維持管理方針をすり合わせる
このような信頼関係の再構築こそが、未曾有のオイル不足という荒波を乗り越え、日本のモビリティ社会の安全を守り抜くための唯一の道筋であると確信しております。
おわりに:業界の未来と信頼を守り抜くために
46年前、私が自動車業界に足を踏み入れた頃、車は今ほど複雑ではなく、整備士の勘と経験、そして潤沢な資材によって現場は活気に満ちていました。時代は流れ、自動車は電子制御と精密工学の結晶となり、環境性能と安全性能は飛躍的に向上しました。
しかし、どれほど技術が進化し、電動化が進もうとも、内燃機関を積んだ自動車が道路を走る限り、エンジンオイルは車の血液であり続けます。その血液の供給が滞るという今回の事態は、日本の自動車産業が築き上げてきたサプライチェーンとビジネスモデルの「無理」と「綻び」が一気に噴出した結果に他なりません。
「7割の入庫制限」「3割の価格転嫁不能」という数字は、単なる統計データではなく、全国の現場スタッフが流している汗と涙、そして経営陣が突きつけられている冷酷な選択の記録です。
現場は今、この瞬間もお客様の車を安全に走らせるため、一滴のオイルの配分に頭を悩ませ、頭を下げ、プライドを持って必死に踏みとどまっています。この過酷な試練を通じて、業界全体が適正な価格転嫁と持続可能なサービスモデルの再構築へと舵を切り、ユーザーの皆様と共に新たな信頼の絆を結び直すことができるのか。
今まさに、日本の自動車業界の真価が問われています。長年この業界を愛し、共に歩んできた一人の業界関係者として、私はこれからも現場の真実の声を届け続け、業界の健全な再生を見守り続けたいと考えております。


